奈良時代2ー2和歌

藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ慶雲三〜天平宝字八(706-764)略伝武智麻呂の二男。母は阿部氏。豊成の同母弟。藤原房前の娘袁比良(おひら)を正妻とする。子に執弓(真先)久須麻呂真従朝猟ほか。天平宝字二年(758)以後は藤原恵美朝臣押勝と称した。

大学少允を経て、天平六年(734)、従五位下に叙せらる。同十二年、聖武天皇の関東行幸の際には前騎兵大将軍となる。同十三年、従四位下。同年七月、民部卿となり恭仁新京の造営に主導的役割を果たす。同十五年、従四位上参議に就任し、左京大夫を兼ねる。同十六年閏一月、難波宮行幸の際は恭仁京留守官を勤めるが、脚病により恭仁京に帰還した安積親王の急死後、留守官を解任された。平城還都後、近江守を兼ね、天平十八年(746)には式部卿に遷任される。同年従三位、同二十年には正三位と進み、天平勝宝元年(749)、中納言を経ず大納言に昇進する。同年八月、新設の紫微中台の長官(紫微令)を兼ね、以後光明皇后の勢威を背景として、その権力は左大臣諸兄右大臣豊成を凌ぐようになる。同二年、従二位。同九年五月、紫微内相に就任し兵事を掌握。同年六月末、山背王の密告により橘奈良麻呂大伴古麻呂らの謀反計画が発覚し、与党を捕縛した。天平宝字二年(758)八月、孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位すると、大保(右大臣)に就任し、藤原恵美の姓と押勝の名を賜る。さらに永世相伝の功封三千戸功田百町を賜わり、私鋳銭私出\xB5

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万葉集に2首の歌を残す。藤氏家伝を編纂させ、続日本紀の編集にも関わった。

大納言藤原家にして、入唐使等を餞うまのはなむけする宴の日の歌一首すなはち主人卿作る

天雲の往き還りなむものゆゑに思ひそ我あがする別れ悲しみ万19-4242

通釈空の雲は往っては帰って来るものそのように、あなたもいずれは帰って来るものなのに、私は物思いに沈んでいる。別れを悲しんで。

補記天平勝宝三年(751)二月、藤原清河ら遣唐使を送別する宴。清河は作者の従弟。

天平宝字元年十一月十八日、内裏にて肆宴きこしめす歌

いざ子ども狂行たはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は万20-4487

通釈さあ、皆の者よ、馬鹿なことをするでないぞ。この大和島根は、天地の神が造り固めた国であるぞ。

補記子どもは皆の衆、おまえたち、というほどの意。たはわざは、常軌を逸したこと愚行軽率な行為などの意。この場合、橘奈良麻呂の乱をほのめかしていよう。

藤原永手ふじわらのながて和銅七〜宝亀七(714-771)略伝房前の次男(長男鳥養は夭折したため、実質的に北家の長子)。母は牟漏女王。同母弟に八束(真楯)がいる。子には家依曹司(光仁天皇夫人)雄依がいる。

天平九年(737)、従五位下聖武治世には弟八束の後塵を拝し、やや不遇であったが、天平二十一年の孝謙天皇即位以後、急速に昇進を重ねる。天平勝宝二年(750)、従四位上。同四年、大倭守。同六年正月には一挙に三階昇進して従三位に叙せられた。同八年、権中納言(参議を経ず)。同九年五月、中納言に昇進。天平宝字八年(764)九月、恵美押勝の乱に際し正三位に昇叙され、大納言に昇進。天平神護元年(765)正月、乱鎮圧の功により勲二等。称徳道鏡の専制下にあっても寵遇は変わらず、同二年正月、前年末死去した豊成の後を襲い右大臣に就任し、正二位に昇叙。同年十月には、道鏡の法王就任に際し左大臣に任ぜられた。神護景雲三年(769)、従一位。同年八月、称徳天皇が崩ずると、右大臣真備らと協議し、白壁王の立太子を決める。同年十月、白壁王が即位し(光仁天皇)、永手は正一位に昇叙された。宝亀二年(771)二月、急病にかかり、大中臣清麻呂左大臣を代行する。同月二十二日、五十八歳で薨ず。光仁天皇はその死を哀惜し、挽歌を思わせる長大な宣命を垂れた。太政大臣を追贈される。

二十五日、新嘗会の肆宴とよのあかりに、詔を応うけたまはる歌

袖垂れていざ我が苑に鶯の木伝こづたひ散らす梅の花見に万19-4277

通釈ゆったりと袖を垂らして、さあ我が庭園においで下さい。鶯が木から木へ伝いながら散らす梅の花を見に。

補記天平勝宝四年(752)十一月二十五日の作。袖垂れては、漢語垂拱の翻案語という。太平を暗示する。梅に鶯はふつう早春の取り合わせ。この歌はやがて訪れる新春を予祝したもの。

他出古今和歌六帖、拾遺抄、拾遺集、和歌体十種華艶体、雲玉集

藤原八束ふじわらのやつか霊亀元〜天平神護二(715-766)略伝北家房前の第三子。母は美努(みの)王の娘、牟漏(むろ)女王。従って橘諸兄の甥にあたる。天平宝字四年(760)頃、真楯の名を賜る。後世繁栄を謳歌する藤原北家は真楯の嫡流

聖武天皇の寵臣。春宮大進治部卿中務卿などを歴任し、天平二年(766)年一月、大納言に至るが、同年三月、薨じた(五十二歳)。称徳天皇より大臣としての葬儀を賜わる。大伴家持との親交が窺われる。万葉集に8首の歌を残す。

藤原朝臣八束の月の歌一首

待ちかてに我あがする月は妹が着ける三笠の山に隠こもりたりけり万6-987

通釈私が待ちきれない思いでいた月は、あの子が着る笠という、三笠山に隠れていたのだなあ。

語釈妹がけるは、笠を身につける意から三笠山にかかる枕詞。

藤原朝臣八束の歌一首

さ牡鹿の萩に貫ぬき置ける露の白玉あふさわに誰の人かも手に巻かむちふ万8-1547

通釈牡鹿(おじか)が萩の枝を糸として貫き通した露の白玉、この美しい白玉を、いったい誰が軽はずみな気持ちで手に巻いてしまうというのか。いや、深く思い入れてこそ手に巻くべきである。

補記白玉は婚期にある若い少女を暗喩する。あふさわ源氏物語などに見えるオホザフと同じという本居宣長説。大方、並などの意。一説に逢うとすぐになどの意とする。なおこの歌は旋頭歌。秋雑歌。

藤原朝臣八束の歌一首

春日野に時雨ふる見ゆ明日よりは紅葉かざさむ高円の山万8-1571

通釈春日野に時雨の降るのが見える。明日からは、紅葉を挿頭(かざし)にするだろう、高円(たかまと)の山よ。

補記当時、時雨が葉を紅葉させると信じられた。かざすは頭髪に挿す意だが、ここでは高円山を擬人化して、山が紅葉を挿頭にする、と見立てている。ただし、紅葉を挿頭にしよう、高円山でとも解釈できる。

新嘗会にひなへまつりの肆宴とよのあかりに、詔を応うけたまはる歌

島山に照れる橘髻華うずに挿し仕へまつるは卿大夫まへつきみたち万19-4276

通釈庭園の山に輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えしているのは、大君の御前に伺候する官人たちである。

補記天平勝宝三年十一月二十五日の作。髻華は髪飾り。橘は常世から持ち来ったとの伝承をもつ、めでたい木の実。この場合、橘諸兄を主導者として仰ごう、との政治的暗喩があるか。八束は母が諸兄の妹だったこともあり、藤原氏でありながら親諸兄派であった。

参考九月尽

山さびし秋もすぎぬとつぐるかも槙の葉ごとにおける朝霜和漢朗詠集

通釈山は寂しい。秋も過ぎ去ったと知らせているのだろうか。針葉樹の林を眺めれば、どの葉にもどの葉にも朝霜が置いている。

補記この歌は和漢朗詠集深窓秘抄などに八束作として見える。風雅集には大江千里作としてよく似た歌山さむし秋もくれぬとつぐるかもまきの葉ごとにおける朝じもがある。いずれも出典不明。

大伴駿河麻呂おおとものするがまろ生年未詳〜宝亀七(-776)略伝大伴御行の孫。父は不詳。家持の又従兄。坂上家の次女二嬢を娶るか。

天平十五年(743)、従五位下に叙され、同十八年、越前守の地位にあった。天平宝字元年(757)、橘奈良麻呂の乱連座し、弾劾を受ける。その後復権し、宝亀元年(770)、出雲守。同三年には陸奥按察使に任ぜられたが、老衰により辞任した。同四年、陸奥鎮守将軍。同六年、参議。同年十一月、蝦夷追討の功により正四位上勲三等。同七年(776)、卒す。万葉集巻三四八に計11首を残す。

大伴宿禰駿河麻呂の歌一首

梅の花散らす冬風あらしの音のみに聞きし我妹わぎもを見らくしよしも万8-1660

通釈梅の花を散らせる冬の嵐の烈しい音その音ではないが、音(噂)にばかり聞いていたあなたに逢えたことは結構なことよ。

補記初めの二句は音のみにを導く序。今までは噂に聞くばかりであった人に、とうとう逢えた喜び。

大神奥守おおみわのおきもり生没年未詳天平宝字八年(764)、正六位下より従五位下に昇叙。大神氏は大神女郎参照。

池田朝臣が大神朝臣奥守を嗤あざける歌一首

寺の女餓鬼めがき申さく大神おほみわの男餓鬼をがき賜たばりてその子産まはむ万16-3840

大神朝臣奥守が報へ嗤ける歌一首

仏造る真朱まそほ足らずは水溜まる池田の朝臣あそが鼻の上へを掘れ万16-3841

補記池田朝臣の歌は、大神朝臣が餓鬼のように痩せていることをからかった歌か。これに対し奥守は、池田朝臣の鼻は赤いので、仏像の塗料に使う赤土が足りなかったら、彼の鼻を掘れ、とやり返した。

安倍虫麻呂あべのむしまろ生没年未詳略伝父は未詳。母は万葉集によれば安曇外命婦。従姉妹に大伴坂上郎女がいる。氏名は阿部にも作る。

天平九年(737)九月、外従五位下。同年十二月、皇后宮亮従五位下。同十年閏七月、中務少輔。同年八月、右大臣橘諸兄家の宴に臨席、歌を詠む万葉巻八。同十二年九月、藤原広嗣の乱に際し、勅使に任命される。同年十月、佐伯常人と共に軍を率い、豊前国板櫃河で反乱軍と対戦、戦功を挙げる。十一月、鈴鹿郡赤坂頓宮において供奉者への叙位がなされ、この時従五位上に昇叙される。同十三年閏三月、広嗣の乱鎮圧の戦功者として、さらに正五位下に昇叙される。同年八月、播磨守。同十六年正月、諸卿大夫が安倍虫麻呂家に集い宴したことが万葉集巻六に見える。同十七年九月、八幡神社宇佐に派遣され、奉幣。この時も播磨守。天平勝宝元年(749)八月、紫微中台の大忠を兼ねる。同三年正月、従四位下天平勝宝四年三月十七日、卒す。時に中務大輔従四位下

万葉集に五首の歌を残す。

安倍朝臣虫麻呂の歌一首

しつたまき数にもあらぬ我が身もち如何でここだく我あが恋ひ渡る万4-672

通釈粗末な環のように、数にも入らない私の身でもって、どうしてこれ程私は恋し続けているのだろうか。

語釈しつたまきシツは倭文織(しづおり)のこととも言うが、この場合、賎(しつ)手纏(たまき)、すなわち粗末な環のことか。手纏環は、宝玉などを紐で通して肘につけた飾り。しつ(づ)たまきで数ならぬにかかる枕詞となる。

補記巻四相聞歌。自身を卑下し、叶わぬ恋に思いを燃やしていると言うことで、恋人に苦しさを訴えている。誰に贈った歌とも知れないが、続く大伴坂上郎女の歌二首まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも真玉つくをちこち兼ねて言は言へど逢ひて後こそ悔にはありといへを掲出歌に対する応答と見る説もある。

参考歌山上憶良万葉集巻五

しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千歳にもがと思ほゆるかも

主な派生歌

しづくまき数にもあらぬ玉のをのみだれて恋ひん絶えははつとも(藤原家隆)

安倍朝臣虫麻呂の月の歌一首

雨ごもる三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降くだちつつ万6-980

通釈三笠の山が高いからか、月はなかなか出て来ない。夜はどんどん更けてゆくというのに。

語釈雨(あま)ごもる笠または三笠の山の枕詞。雨の時にその下に隠れる笠から。

補記続く大伴坂上郎女の月の歌三首と同じ宴での作かという萬葉集釋注。

厚見王あつみのおおきみ天平勝宝元年(749)四月、無位より従五位下。同六年七月、太皇太后(藤原宮子)葬送装束司。同七年十一月、伊勢奉幣使。この時少納言。同九歳五月、従五位上

万葉集に三首の歌を残す。そのうちかはづ鳴くの歌は新古今集ほか多くの撰集に採られて名高い。

厚見王の歌一首

かはづ鳴く神奈備川かむなびかはに影見えて今や咲くらむ山吹の花万8-1435

通釈河鹿(かじか)が鳴く神奈備川に影を映して、今頃咲いているだろうか、あの山吹の花が。

語釈神奈備川神の鎮座する山を神奈備山と言い、その裾野を巡るように流れる川を神奈備川と言った。元来は普通名詞であるが、のち王朝和歌では龍田川のことと見なされた。

補記春雑歌。第三句まではかで頭韻を踏む。印象鮮明かつ調子の高い叙景歌で、多くの秀歌撰に採られ古来高く評価されてきた。

他出新古今集巻二にも掲載されている第二句はかみなみ河、第四句はいまかさくらむ。他に新撰和歌和漢朗詠集五代集歌枕古来風躰抄定家八代抄秀歌大躰歌枕名寄など。

主な派生歌

逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之拾遺)

こがれつつ春のなかばになりぬなり今や咲くらむ山吹の花(大中臣能宣)

春ふかみ神なび河に影見えてうつろひにけり山吹の花(藤原長実金葉)

月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖(藤原俊成新古今)

春暮れぬ今か咲くらむかはづ鳴く神なび川の山吹の花(藤原俊成)

かはづなく神なび河に咲く花のいはぬ色をも人のとへかし(二条院讃岐新勅撰)

大堰河かへらぬ水に影見えてことしもさける山ざくらかな(香川景樹)

厚見王の歌一首

朝に日けに色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに万4-668

通釈朝ごとに日ごとに色づいてゆく山そのように私の思いは深くなるばかりで、山にかかる白雲がやがて立ち去るように、消え去ってしまうようなあなたへの恋でないのに。

補記相聞。但し宴席で披露された歌であろうとの説もある。

厚見王、久米女郎に贈る歌一首

屋戸にある桜の花は今もかも松風疾いたみ土に散るらむ万8-1458

通釈庭に植えてある桜の花は、今頃、松風がひどく吹くあまり、地面に散っているだろうか。

補記春相聞。花が散ることは、ここでは心変わりの暗喩。久米女郎の返歌は世の中も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも。

広河女王ひろかわのおおきみ上道王の息女。穂積皇子の孫。天平宝字七年(763)一月、従五位下に初叙されている。万葉集巻四に2首載る。

広河女王の歌

恋草を力車ちからぐるまに七車ななくるま積みて恋ふらく我が心から万4-694

通釈この恋を草に譬えるなら、刈草を力車七つ分積むほど恋しいことよそんなに苦しい思いをするのも、ほかならぬ自分の心ゆえなのだ。

語釈恋草頻りと恋情が催すのを、草が繁るさまに譬える。力車力夫の引く車。我が心からこのからは原因を示す助詞。自業自得である、といった気持。

主な派生歌

七車積むともつきじ思ふにも言ふにもあまるわが恋草は(狭衣物語)

七車つむ恋草のおもければうしとみれどもやるかたもなし(大江匡房)

人しれぬわが恋草の七車思ひみだれてやる方もなし(後村上院新葉)

恋草のちから車を引く牛のくるしむいきを我がむねにして(肖柏)

石川広成いしかわのひろなり生没年未詳父母等は未詳。天平十五年(743)頃、内舎人の地位にあった万葉集巻八。天平宝字二年(758)八月、従六位上より従五位下。この頃但馬介。同四年二月、高円朝臣を賜姓される万葉巻四所載歌の左注にも後賜姓高円朝臣氏也とある。同月、文部少輔。万葉集には三首、巻四の696番、巻八の16001601番。

石川朝臣広成の歌一首

家人いへびとに恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば万4-696

通釈家族に対して、恋い慕う心が消えることなどあろうか。河鹿の鳴く泉の里に何年も過ごしているので。

語釈泉の里山城国相楽郡、泉川今の木津川流域の地。恭仁京(くにきょう)の所在地。

補記作者が官人として恭仁京に単身赴任していた時、平城旧京に残して来た家族を思いやっての作であろう。恭仁遷都は天平十二年(740)。

内舎人石川朝臣広成の歌二首

妻恋ひに鹿か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく万8-1600

通釈妻を恋うて鹿が鳴く山辺の秋萩は、露が寒と置くので、花の盛りが過ぎてゆく。

補記この二首は万葉集巻八の排列から天平十五年(743)秋の作と見られ、やはり恭仁京にあっての作らしい。内舎人(うどねり)は天皇に近侍して警備などに従事した役職。

めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも万8-1601

通釈心ひかれるあなたの家の花薄が美しい穂を出している秋この季節が過ぎてゆくのが惜しまれてならない。

語釈めづらしきなかなか逢いに行けなくて残念なほどの意を帯びよう。花薄穂を出した薄。

船王ふねのおおきみ生没年未詳略伝舎人親王の子。三原王の弟。大炊王(淳仁天皇)の兄。

神亀元年(727)、従四位下に初叙される。天平十五年(743)、皇太子阿倍内親王の五節奏舞に臨み、従四位上に昇叙される。その後、弾正尹治部卿などを歴任。天平勝宝九年(757)三月、道祖王廃太子に際し皇太子候補に擬せられたが、孝謙天皇の勅に船王は閨房修まらずとある。同年七月、橘奈良麻呂の謀反計画が未遂に終わった後、百済王敬福と共に獄囚の拷問にあたり、黄文王道祖王大伴古麻呂らを杖死に至らしめた。この時大宰帥とある。同年八月、正四位上に昇叙。天平宝字二年(758)八月、弟大炊王の即位に伴い、従三位に昇る。同三年六月、舎人親王崇道尽敬皇帝の尊号が追贈された日、天皇の兄弟として親王に叙せられ、三品を賜わる。同六年正月、二品。同八年九月、藤原仲麻呂の乱に与して捕えられ、同年十月、諸王に下されて隠岐国に流された。

万葉集に4首の歌を残す。

春三月やよひ、難波の宮に幸いでます時の歌

眉まよのごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊とまり知らずも万6-998

右の一首は、船王の作。

通釈眉のように遥かに見える阿波の山、その山を目指して漕ぐ船停泊する港はどことも知れないのだ。

補記阿波の山は徳島県徳島市眉山(びざん)であろう。天平六年(734)三月、聖武天皇の難波行幸に従駕しての作らしい。

十八日、左大臣の、兵部卿橘奈良麿朝臣が宅に宴する歌

撫子が花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも万20-4449

右の一首は、治部卿船王。

通釈撫子の花を手に持ってまじまじと見つめるように、いつもお側近くにいてお目にかかりたいあなたでありますよ。

語釈十八日天平勝宝四年十一月。うつらうつらまざまざと。ウツラのウツは現(うつつ)のウツに同じ。

巨曽倍対馬こそべのつしま天平二年(730)十二月、正六位上大和介、勲十二等寧樂遺文。同四年八月、外従五位下山陰道節度使判官。天平十年(738)八月二十日、右大臣橘諸兄宅の宴に参席し歌を残している万葉集巻六。この時、長門守とある。

秋八月二十日、右大臣橘家に宴する歌

長門なる沖つ借島奥まへて我あが思もふ君は千年にもがも万6-1024

通釈我が任国長門にある沖の借島その沖ではありませんが、奥すなわち将来をかけて私がお慕いするあなたは千年も長生きしてほしい。

語釈沖つ借島所在不詳。下関市萩市の沖合の小島と見る説がある。奥まへて奥まけての転。将来をかけて。

補記天平十年(738)八月二十日、右大臣橘諸兄の家で催された宴に出席した時の歌。左注から作者が当時長門守の地位にあったことが知られ、任地の島に因んで長門なる沖つ借島を出し、沖から奥を導いて、宴の主人である諸兄に対する祝意を述べた。

丹比屋主たじひのやぬし生没年未詳丹比乙麻呂の父万葉集巻八の題詞脚注。万葉集に二首の歌を残す。

天平十二年(740)十月に京を出発した聖武天皇の関東行幸に従駕するが、河口行宮より京に帰還した万葉集巻六の左注。また万葉集巻八の題詞によれば、天平年間に大蔵少輔の地位にあった。

続日本紀に見える丹比多治比屋主は神亀元年(724)二月に従五位下に叙せられ、備前守左大舎人頭などを歴任している。しかし万葉集の丹比屋主はこれとは別人物で、天平九年に従五位下に叙せられた丹比家主であろうとする説もある万葉集古義。

丹比屋主真人の歌一首

後れにし人を思しのはく四泥しでの崎木綿ゆふ取り垂しでて幸さきくとそ思ふ万6-1031

通釈都に残して行った人を思っては、四泥の崎という名のように、木綿を取りしでて、無事を祈っている。

語釈後れにし人平城京に留まった人。作者の妻か恋人を指すのであろう。四泥の崎今の三重県四日市市大宮町あたりにあった出洲という。木綿取り垂でてこの木綿(ゆふ)は幣帛として用いたもの。榊の枝などに垂らして神事を行なった。

補記旅先の地名にかけて望郷の思いを歌う。万葉集巻六に天平十二年冬の聖武天皇関東行幸の際の歌として収録されているが、左注の勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉大夫に勅して河口の行宮より京に還し、従駕せしむることなしの記事を信じれば、この行幸ではあり得ない。四泥の崎は河口行宮より先の行程に属するからである。養老二年(718)春の元正天皇美濃国行幸の際の歌などが錯入したか。あるいは行幸に従駕し鈴鹿郡赤坂頓宮で叙位されている家主と屋主とを混同したかとも言う万葉集古義。

大蔵少輔丹比屋主真人の歌一首

難波辺なにはへに人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ万8-1442

通釈難波のあたりに夫が行ってしまったので、ひとり残されて春菜を摘む奥さんを見るのが不憫だ。

補記巻八春雑歌。難波に行った人は春菜摘む子の夫を指す。

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